「民宿いずしま」
https://minsyuku.izushima.com/
1983年
その頃わたくしはTBC東北放送の報道局映像部でカメラマンアシスタントをしておりました。当時の同じ職場の方から「大学の同級生が教師として赴任したところが出島といって、小中学校一緒の学校が一つしかなくてすごいところ!」という手紙が届いたので、一緒に行ってみないか!?の話をいただき、そんじゃ行ってみましょうか!ってなことで・・・物語のはじまりとなります;^^
当時の出島は島民およそ800人、おもな産業はもちろん漁業でした。島の子供たちはまさに「純朴」で、小中学校一緒の学校を卒業すると「マグロ船」に乗ることが目標だ!と目を輝かせながら話しておりました。そして10年間仕事をして、2000万円貯めて戻ってくると、石巻から美人のお嫁さんをもらって豪華な車に乗り暮らすんだという現実的でかつ具体的な「夢」を語ってくれました。
当時23歳の普通に暮らしてきた私にとっては、その具体性のある人生観に感動したものです。
たくさんあった「民宿」も東日本大震災の津波でで消失。島の中腹にあった「民宿いずしま」は何とか難を逃れましたが、これまでの出島の機能は殆ど失われてしまい、多くの島民は移住せざるを得ない状況になりました。わたくしは何もすることができず、石巻に移住した仲間たちに中古車などを運ぶことしかできませんでした。
これまでの40年間で島の仲間たちの結婚披露宴にも御呼ばれいたしまして、いつもびっくりしてしまうのが島民の「歌唱力」です(^^♪下手な演歌歌手では足元にもおよびません。多くは若いころから北島三郎さんの曲です。20代なのに当時高級カーのシーマを乗り回し(もちろん本土にわざわざ駐車場を借りて;^^)車内には「北島演歌」のカセットテープがぎっしり!助手席の私には会話が聞こえないほどの大音量でバンバンならしてましたねー。
当時女川港から出島までの運行船はいわゆる「ポンポン船」といった小さな船で40分以上かけて渡ってました。目的地の「寺間港」が見えてくると、港に停泊している多くの船のマストの上に黒いかたまりが、、よく見ると真っ黒に日焼けした子供たち!!運行船が近づくと次々と海へ飛び込んで水しぶきが上がります!後で聞いたら私たちに対して「歓迎」してくれていたとの事;^^いや~もうびっくりです。いまは高速巡行船で20分ちょっとで快適ツァーです!
「五億の会」・・40年前民宿でよく耳にした言葉です。今でこそみなさんご存じの通り「銀鮭」の出荷量日本一全国生産量の90%を誇る女川地区ですが当時20歳そこそこだった仲間たちが10人で年間売上五億やろう!と言いながら飲んでました。一年間で稚魚から成魚に育ててなおかつ脂ののったおいしい魚にしなければ!最初は油かすを食べさせてみたところ脂肪肝になってしまい、脂肪肝の薬を飲ませればコストがかかりすぎ;;;試行錯誤苦労の連続のようでした;^^
1986年
また出島へ。荷物を抱えて巡行船を降りれば、いろいろな島民の方々から「おー!何時の船でかえんのやー?」と声を掛けられて。まだ来たばっかりなのに。。お土産をくれるつもりなのです;^^歩いてすぐ船着き場の向えに民宿「しんや」。植木さんご夫婦がいつもの日焼けした笑顔でむかえてくれます。すぐ隣の分かれ道には寺間で一軒の「須田商店」ビールから裁縫道具まであの狭い店にないものはありません。そこから上に登っていく道。両側にはぎっしり並んだ豪邸のオンパレード。民宿えんどうは下側の右側!いつも無理行ってお世話になっております。港側では漁から帰った漁船が荷下ろしをしながら、養殖のホヤを引き上げています。おそらくは年配の女性が深く刻んだシワをよじらせ笑顔で手慣れた作業をしております。
「浜っ子まつり」
2007年 島で唯一の小中学校で年一回開催される「浜っ子まつり」にお呼ばれいたしました。今回は音楽家として;^^A.M君の子供が生徒だった関係からとの事。何よりも緊張したコンサートとなりましたね。なにせ観客が全員プロ歌手みたいなものでして;^^
ーーー東日本大震災ーーー
2016年
「民宿いずしま」の現オーナーである佐藤淳さんが再オープンさせてくれました。寺間港へ着くと淳たんがいつもの軽ワゴン車で出迎えてくれます。港を離れ旧民宿しんやの前を通り、旧須田商店前、アスファルトで整地された土地に向かって毎回「ここがしんや!」「ここが須田商店!」「この辺が民宿えんどう」「伸ちゃん家は確かこのへんだったよなぁ」。何回訪れても口から出てしまいます。
